「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!」
このセリフを聞いて、胸が熱くなった人は少なくないでしょう。
1997年に放送を開始したドラマ『踊る大捜査線』は、従来の刑事ドラマの常識を打ち破り、多くの人々の心を掴みました。
湾岸署という舞台で繰り広げられる、ユーモアとシリアスが絶妙に混じり合った人間ドラマ。
青島俊作、室井慎次、恩田すみれ、和久平八郎…魅力的なキャラクターたちは、テレビの枠を超えて私たちの「仲間」になっていきました。
しかし、いつからでしょうか?
熱狂的なファンだったはずなのに、いつの間にか新作が公開されても「またか」と感じるようになったのは。
かつて心躍らせたあの物語に、私たちはなぜ飽きてしまったのでしょうか。
この記事では、熱狂的な支持を集めた『踊る大捜査線』が、なぜ徐々にその魅力を失っていったのかを、いくつかの視点から考察します。
踊る大捜査線やってるけど、私は既にあの番組映画ともに飽きた。踊る~よりも、同じ脚本家が書いた「きらきらひかる」のほうが好きなので、当時と同じキャスティングでこちらを映画化して欲しいものだ。あちらの深津絵里のほうが好きなのもある。
— ぐり@療養中 (@moonxnarcissus) September 15, 2012
踊る大捜査線、なぜつまらなくなった?:映画化による「スケールアップ」の罠
ドラマ版の成功を受けて、1998年に公開された初の劇場版『踊る大捜査線 THE MOVIE』は、その期待を裏切らない傑作でした。
テレビでは描ききれないスケール感、そして青島と室井の確執と信頼が深まるストーリーは、ファンを熱狂させました。
この成功が、以降の映画化路線を決定づけたと言えるでしょう。
しかし、問題はここから始まります。
シリーズを重ねるごとに、物語のスケールはどんどん大きくなっていきました。
14時55分~ 『踊る大捜査線 THE MOVIE』 もう観飽きた~って言いながら観るのが私。
— レイ (@common_raven_) December 24, 2011
『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』
史上最悪の猟奇殺人事件、警察組織内の権力闘争、そして東京湾岸の象徴であるレインボーブリッジの封鎖。
スケールは最大化され、興行収入もシリーズ最高を記録しました。
しかし、すでにこの時点で「会議室」での政治劇がより重要視され始め、かつての「現場」での地道な捜査や人間模様は影を潜めつつありました。
『踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!』
湾岸署の移転という大規模なイベントを軸に、過去の事件の犯人たちが次々と脱獄。
このプロットは、かつてのファンが愛した日常的な「非日常」から、完全にかけ離れたものになりました。
あまりにも設定が壮大になりすぎた結果、物語は現実感を失い、キャラクターたちの行動原理もどこか希薄になってしまったように感じられました。
シリーズ初期の魅力は、あくまで「等身大」の警察官たちが奮闘する姿でした。
しかし、映画化が加速するにつれて、彼らは巨大な組織や国際的な陰謀と戦うヒーローへと変貌していきます。
私たちは、普通の警察官が犯人を追いかける姿に共感したのであって、スケールの大きさを求めていたわけではなかったのかもしれません。
踊る大捜査線、なぜつまらなくなった?:変わらない「お約束」が生むマンネリ感
『踊る大捜査線』には、多くの「お約束」がありました。
青島が着るコート、すみれのハイヒール、真下の「キャリアは…」、そしてどこかで必ず流れるあのメインテーマ。
これらは初期にはファンを喜ばせる重要な要素でした。
しかし、シリーズが長期化するにつれて、これらのお約束は次第に**「枷(かせ)」**へと変わっていきました。
キャラクターの成長の停滞
青島はいつまでも所轄の係長で、室井はいつまでも組織の中で孤軍奮闘し、すみれはいつまでも恋愛に奥手なまま。
物語が進むにつれて、登場人物たちの年齢は確実に上がっているのに、キャラクターとしての成長や変化がほとんど見られません。
これは、ファンが「この後どうなるんだろう?」とワクワクする気持ちを削いでいきました。
パターン化されたストーリー
大規模な事件が発生し、所轄と本庁が対立し、政治家や警察庁の上層部が介入する。
そして、青島や室井たちが奮闘し、最終的には彼ら自身の力で事件を解決する。
この一連の流れは、初期の新鮮さを失い、予測可能な「型」になっていきました。
お約束は安心感を与えますが、同時に「飽き」の原因にもなり得るのです。
踊る大捜査線、なぜつまらなくなった?:時代の変化と「警察組織」のリアリティ
『踊る大捜査線』が放送された1997年、そして初期の映画が公開された2000年代初頭は、まだインターネットが普及し始めたばかりの時代でした。
当時描かれた警察の捜査手法や組織の在り方は、私たちの「想像の範疇」に収まるものであり、その中で奮闘する警察官の姿は、私たちの共感を呼びました。
しかし、2010年代以降、SNSの普及やIT技術の進歩は社会のあり方を大きく変えました。
それに伴い、警察の捜査手法も高度化し、組織のあり方もより複雑になりました。
かつて『踊る大捜査線』が描いたような「アナログ」な捜査や、青島のようなキャラクターが組織とぶつかる姿は、良くも悪くも**「古く」**感じられるようになってしまったのです。
また、事件の描き方も時代とともに変化しました。
犯罪心理学やプロファイリングといった、より専門的でリアルな警察ドラマが増えてきた中で、『踊る大捜査線』のエンターテインメントに特化した作風は、次第にリアリティを求める視聴者のニーズから乖離していきました。
踊る大捜査線、なぜつまらなくなった?:まとめ
かつての熱狂が嘘だったわけではありません。
私たちは青島や室井たちの生き様に心を揺さぶられ、彼らが所属する「湾岸署」という世界観に夢中になりました。
しかし、私たちは成長し、時代は変わっていきました。
『踊る大捜査線』は、私たちに「正義」や「組織」について考えさせ、警察官という仕事の光と影を教えてくれました。
しかし、シリーズが続くにつれて、その「問いかけ」は次第に弱まり、マンネリとスケールアップの渦に飲まれていきました。
私たちが『踊る大捜査線』に飽きてきたのは、もしかしたら物語が変わったからではなく、「私たちが変わったから」なのかもしれません。
『踊る大捜査線』は、私たちにとっての「青春」でした。
青春時代には熱狂したけれど、大人になってからは少し気恥ずかしくなってしまった、そんな存在なのかもしれません。
それでも、ふとした瞬間にあのテーマ曲が耳に入ると、かつて抱いたあの熱い気持ちを思い出してしまう。
それが、『踊る大捜査線』という作品が、今もなお私たちの心の中に生き続けている証拠なのです。


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