7月7日は七夕の日ですが、「そうめんの日」でもあることをご存知でしょうか?
『七夕・そうめんの日』は1982年に、乾麺メーカーの中央団体である全国乾麺協同組合連合会(全乾麺)によって定められています。
なぜ、七夕にそうめんなのでしょうか?
実は、そうめんのルーツは七夕と関係があると言われています。
今回の記事では、七夕とそうめんの関係や、そうめんの由来についてご紹介したいと思います!
七夕のそうめんの由来:七夕とそうめんの関係
元々そうめんは日本の暑い夏によく食べられる物なので、特に七夕と深い関係があるとは思えないかもしれませんね。
実際、前述の全乾麺が七夕そうめんの普及活動を始めるまでは、太平洋側の東北地方と北海道の一部のみで知られる風習でした。
しかし、そういった地域では「七夕といえばそうめん」というくらい、行事食としてのそうめんが定着しているため、そこには何かしらの歴史がありそうです。
ここでは、そうめんが七夕の行事食となった由来について解説いたします。
七夕は格式高い宮中の行事だった
今日は旧暦七月七日七夕(シチセキ)。
奈良時代に遣唐使によってもたらされ中国の伝統行事で、始めは相撲節会でしたが平安時代に華やかな唐の宮廷行事が主流となり貴族達が競って宴を開き上弦の月に技芸の上達を願いました。今のような形の七夕祭りになったのは庶民文化が盛んになった江戸時代の事です pic.twitter.com/YVAYKmSZMb— ゆうがお (@EiozHhiOtTjiqs3) August 13, 2021
今から約千年前の日本では旧暦が使われており、現在でいう8月7日に『七夕(しちせき)の節句』と呼ばれる、季節の節目の儀式が宮中で行われていました。
七夕の節句は唐の時代の中国から伝わった行事で、現代の七夕とは異なり、祭壇に供物を供えて神に五穀豊穣や無病息災を祈願するというものでした。
そして、そのお供え物の中にそうめんの元になったと言われる『索餅(さくべい)』がありました。
索餅からそうめんができた?
「光る君へ」で、道綱が食べていたお菓子は唐菓子の「索餅(さくべい)」でしょう。当初は他の唐菓子同様に揚菓子だったようで、『延喜式』(主殿)には「大膳職胡麻油一升二合。供御并中宮御索餅糖料」とあり糖(あめ)で甘味を付けたようです。 pic.twitter.com/cA5eK8rala
— 八條忠基 (@EeoduLzbYVjTprk) March 18, 2024
索餅は中国から伝わった唐菓子で、「縄のような生地」という意味合いを持ちます。
食感は現代のチュロスに近く、小麦粉と米粉を水で練った生地を縄のように太く編んでから油で揚げて作ります。
異説が多くあり定かではありませんが、材料が似ている索餅からそうめんができ、七夕の節句のお供え物にそうめんの方が使われるようになっていったようです。
ちなみに、現在のようなそうめんの形ができたのは鎌倉時代あたりからであると言われています。
当時のそうめんは高級品で、主に寺院の間食や宮中の宴会に出されたりするものでした。
そうめんが一般庶民にも食べ親しまれるようになるのは江戸時代の半ばになってからで、その頃幕府により公的な行事となっていた七夕の節句をお祝いする際の行事食になっていったと考えられます。
そうめんを機織り機の糸や天の川に見立てた
今晩は☺️☺️☺️
七夕(しちせき)の節句は「そうめんの日」
麺を「天の川」に見立てています✨✨✨#七夕の節句#七夕(たなばた)#そうめん #そうめんの日#竹島宏さん pic.twitter.com/au60mxgT7j
— ものらん (@ZAgL65RugxikFED) July 7, 2022
七夕そうめんの由来には他にも説があり、日本古来の『棚機つ女(たなばたつめ)伝説』や中国の『牛郎織女伝説』も関係していると言われます。
それぞれどんな伝説だったのか見てみましょう。
棚機つ女(たなばたつめ)伝説
古くから日本では、神様に献上する高貴な布を織る乙女を「棚機つ女」と呼んでいました。
天から降りてくる神様のために七夕の前日に集められた彼女らは、水辺の小屋で棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機を使って機を織りました。
そして7日の夕方に水辺で体を清めると、神様が一緒に穢れや災難も持って行ってくれた、という伝説です。
そうめんも祟りを避けるために先祖を供養する食べ物として知られており、かつ機織り機の糸がちょうど干したそうめんに似ていることから、穢れや災難を払う七夕の食べ物として用いられるようになったのではないかと考えられています。
ちなみに、『七夕』と書いて「たなばた」と読むのは「七日の夕方」と「たなばた」の読みが混ざったためであるという説もあります。
牛郎織女伝説
牛郎とは彦星、織女とは織姫のことです。
実は、日本でも有名な織姫と彦星の物語は、漢の時代の中国にあった民話『牛郎織女』の一節である『天河配』が元になっています。
「天河」とは天の川を指しており、夏の涼しい夜に見える天の川と清涼感のあるそうめんはイメージ的にも一致し、また前述の通り、七夕の節句が民間行事となっていた江戸時代中期はそうめんが普及し一般化し始めた時期でもあったため、この時に行事食として相応しいという認識が広がったのではないかと考えられています。
七夕のそうめんの由来:そうめんの由来は索餅?索麺?
麺線は、そうめんを使って作ります。そうめん、漢字で書くと素麺。そうめんて読めないじゃないかと調べていたら、大昔は索麺と書いていたそうな。中国語で発音するとsuomian、スオミェン。早口で発音すると、あら不思議そうめんになるじゃないの。そうめんの歴史を深く掘り下げたくなりました。 pic.twitter.com/yJevKcNe5J
— 台湾佐記麺線 (@saki_mensen) December 8, 2021
そうめんは漢字で『素麺』と書きます。
実は、素麺の元になったと言われている索餅(さくべい)の他にも、室町時代初期の文献には『索麺』と綴る食べ物も登場し、その読み方は「さくめん」ではなく「そうめん」なのです。
経緯としては、当時中国から伝わったと思われる索麺が「ソウミエン」と発音されていて、「索」の誤用で「素」の漢字が後に使われるようになったという説が有力です。
そして、索麺は索餅と同じく、小麦粉に塩と水を加えて生地を練る工程があります。
製法・材料や名前が似ているにも関わらず、これら3つの言葉は読み方も現れた時代も異なるため、索餅がそうめんの元になったとはっきり決定づけるには至っていません。
まだ日本で小麦粉が普及していなかった時代であったために呼び方が定まらず、文献の表記にも混乱が生じたのでしょうね。
七夕のそうめんの由来:まとめ
いかがだったでしょうか?
そうめんが厄払いのために節句のお供え物としても使われていたなんて意外ですよね。
当時の日本人は小麦粉を練った生地を魔除けの食べ物を作る素と捉えていたのかもしれません。
皆さんも七夕の節句にそうめんを食べてみてはいかがでしょうか。
今回は、七夕とそうめんの関係や、そうめんの由来についてご紹介させていただきました。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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