歴史的な日本の台風被害3選!現代よりも昔の方が強かった?

台風は、暴風による建物などへの被害もさることながら、低気圧による高潮被害や豪雨による洪水被害といった、大規模な水害を引き起こすこともある災害です。

日本列島は太平洋に面している上、台風の軌道と重なることが多いため、毎年夏から秋にかけて被害を受けやすく、過去に大きな被害が起きた記録がいくつも残っています。

今回は、その中でも特に深刻な被害をもたらした台風についてご紹介したいと思います。

歴史的な日本の台風被害:昭和の三大台風

日本には『昭和の三大台風』と呼ばれる、歴史的に見て記録的な被害をもたらした台風が存在し、それぞれ時代が古い順に

・室戸台風(1934年)
・枕崎台風(1945年)
・伊勢湾台風(1959年)

と呼ばれています。

現在でもドキュメンタリー番組などで取り上げられたりするこれらは、一体どのような台風だったのでしょうか?

詳しく見ていきましょう。

歴史的な日本の台風被害:室戸台風(1934年)

世界恐慌の煽りを受けた不況を背景に、日本の軍国主義的な気運が高まり、中国大陸への進出が起こったりするさなか、昭和9年9月21日に本土を襲ったのが室戸台風です。

室戸台風は、沖縄東方を通過した後から本来とは逆に勢力を強めつつ、時速70kmという非常に速い移動速度で四国の室戸岬に上陸しました。

その時の最低中心気圧は911.6hPaという、当時の世界記録を破るほどの低気圧でした。

この低気圧がもたらす風力はすさまじく、測候所の計測機を乗せた鉄塔が突風で折れ曲がり、計測不能になるほどだったそうです。

正確な最大瞬間風速は計測されていませんが、およそ65m/s前後であったと推定されています。

風速30m/sでも街路樹がなぎ倒されたりなどするため、外に出ることは非常に危険になりますが、その倍以上なので、どれほどの威力か想像できると思います。

例年の台風とは比較にならないほどの圧倒的な風力を持っていた室戸台風ですが、現在のように気象観測技術や情報網が発達していなかったこともあり、その危険性が人々にほとんど伝わらず、結果的に全国で3,036名もの死者・行方不明者が出る事態となってしまいました。

壊れないはずの建物が壊れる

室戸台風が多くの犠牲者を出した要因の一つに、建物の倒壊がありました。

強風の影響を最も大きく受けた大阪では、実に3万棟もの家屋が全半壊し、死傷者は1,888名にものぼっています。

その中でも、本来は避難所となるべき小中学校の校舎が倒壊し、生徒児童に多数の死傷者が出たことは特に有名です。

当時、古い木造校舎を使っていた市内の180もの小学校で、校舎が強風によって粉砕崩壊または倒壊するという前代未聞の事態が起こり、折り悪く登校直後だった職員など9名、児童251名、保護者7名が犠牲となる大惨事となりました。

室戸台風の11年前には関東大震災があり、鉄筋コンクリート造の建築が普及しつつある時代でしたが、構造的に劣る明治以来の木造校舎がまだまだ多く、台風の直撃を受けた大阪・京都・滋賀などの地域では、そうしたほとんどの木造校舎が全半壊あるいは大破してしまいました。

校舎が倒壊する直前に運よく生徒と一緒に避難することができた先生の回想では「2階にいると校舎が烈風でグラグラと揺れ、立っていることも難しかった」と語られています。

室戸台風の強風被害は他にも、全国で合計57輌もの客車や貨車の転覆・脱線や、歴史的建造物である天王寺の五重塔の全壊などが起きており、その風がいかに異常で強烈であったかが窺えます。

3メートルを超える高潮

室戸台風がもたらした被害は風害にとどまりませんでした。

その驚異的な低気圧と強風によって、大阪湾では3メートルを超える高潮が発生し、陸に流入した海水は大阪城付近にまで到達しました。

わずか30分の間に2メートルも水位が上昇し、その尋常でない速度に避難が追い付かず、大阪湾一帯では溺死した人が1,900名以上もいたと推定されています。

台風が通過する午前8時から午後5時までの間、海水は陸に留まり続け、押し流された多数の船舶や流木による橋梁や建物などの破壊が相次ぎ、海上輸送の要であった大阪港の機能は完全に失われる事態となりました。

異常な大雨と大洪水

台風は通常、右半円に入る地域では強風被害、左半円に入る地域では豪雨被害が大きくなる傾向があり、室戸台風はその典型でした。

台風通過当時、左半円の地域にあった岡山県や鳥取県の山間部では、5日間で444mmもの大雨が降り、山崩れの多発により多くの集落が長期間孤立しました。

さらに、増水によって主要な河川が大規模な氾濫を起こし、その影響で岡山市内は1階部分の高さがほぼ水没してしまい、泥海のような状態となりました。

この大洪水により、岡山県では3千4百棟もの家屋が倒壊・流失、4万6千棟の家屋が浸水し、罹災戸数は県全体の4割にものぼったそうです。

岡山市には現在、この洪水が到達した水位を示す標識が各所に設置されており、当時の洪水がいかに深刻なものであったかを伝えています。

歴史的な日本の台風被害:枕崎台風(1945年)

太平洋戦争が終結した直後の昭和20年9月17日から18日にかけ、西日本を猛烈な勢いで襲ったのが枕崎台風(台風16号)でした。

上陸時、鹿児島の枕崎市では室戸台風に近い最低中心気圧916.1hPa、最大瞬間風速62.7m/sが記録されています。

終戦からわずか1か月という時期で、多くの国民は気象情報などまともに得られず、防災体制も整わないまま被害を受けることになり、全国で3,756人もの死者・行方不明者が出ました。

被爆患者をも襲った土石流

枕崎台風がもたらした被害の中でも特に深刻だったのが、大雨によって河川沿いに発生した土石流によるものでした。

海軍の拠点でもあった呉市では、大規模な土石流が市内の至る所で発生し、都市部の広大な範囲が土砂で埋め尽くされる事態となり、全部で1,162戸の人家が流失、1,154名もの死者が出ました。

呉市は港を囲む斜面に住宅が立ち並ぶ都市で、平成30年の西日本豪雨でも土砂災害が発生し、甚大な被害を受けています。

また、土砂災害が与えた被害は一般の民家だけにとどまりませんでした。

広島市の爆心地周辺で被爆しながらもかろうじて生き残った人々は、市外の各医療施設へと運ばれ治療を受けていましたが、その一つであった大野陸軍病院(現廿日市市)が、夜間に丸石川で発生した土石流の直撃を受け、入院患者・医療従事者・研究者合わせて180名が犠牲となりました。

この病院には、原爆投下後から新型爆弾の調査などを行っていた京都大学の原爆災害総合研究班が滞在しており、収集していた原爆症に関する貴重な資料などとともに、研究員11名の命も失われることになってしまいました。

戦争により失われていた情報網

戦前までの日本では、現在の気象庁の前身である中央気象台を中心とした気象観測機関が、国内のみならず台湾・韓国・中国・パラオなどの外地にも観測網を拡大しており、海底ケーブルや無線電信を介して精度の高い気象観測データを集めていました。

台風の予測には沖縄や台湾からの観測データが大きな役割を果たしますが、戦中に敵対していた連合国(※)側の反攻により観測網は寸断され、また本土も度重なる空襲によって気象台の施設や通信インフラが深刻な被害に遭っており、終戦の時点で気象予報の精度は大幅に低下していました。

枕崎台風の進路に関してはほぼ正確だったものの、中心気圧の予想は960hPa以下と曖昧なもので、さらに上陸時間の予想は実際から12時間も遅れていました。

また、空襲で都市が壊滅状態になった地域では、気象予報を伝える新聞社や役所、避難を呼びかける警察や消防といった組織そのものが全て失われており、現地に残って生活していた人々は気象情報を気にかける余裕すらなかったといいます。

戦争によっていかに社会全体が疲弊していたかが分かると同時に、情報インフラが災害予防に果たす役割を感じさせられますね。

枕崎台風によって、広島では全部で2,012名の死者が出たと報告されていますが、これも爆撃によって都市機能が失われた中での調査による数字であり、実際にはもっと多くの犠牲者がいたと言われています。

※連合国(国際連合、United Nations):当時のアメリカ、ソビエト連邦、中華民国、イギリス、フランスなど26カ国が該当

歴史的な日本の台風被害:伊勢湾台風(1959年)

終戦から14年経ち、日本が高度経済成長期に差しかかる転換期でもあった昭和34年9月26日、紀伊半島南端の潮岬付近に伊勢湾台風(台風15号)が上陸しました。

上陸時の最低中心気圧は929.5hPaで、九州から伊豆半島までを覆う超大型の台風でしたが、台風そのものの威力は室戸台風の半分程度とされています。

そして、この時の日本は戦災からの復興も一段落しており、3年前に中央気象台から改称された気象庁が、猛烈な台風に警戒するようテレビ・ラジオを通じて幾度も呼びかけていました。

にもかかわらず伊勢湾台風は、全国で5,098名もの死者・行方不明者を出した、明治以降最大の気象災害となってしまったのです。

名古屋を襲った未曾有の高潮

伊勢湾台風が多くの犠牲者を出す要因となったのは、標高が低い名古屋周辺の沿岸部で発生した、想定を超える規模の高潮でした。

戦中から軍需工場の集積地として栄えていた名古屋市は、復興に向けて新しい工場が次々と建設され市街化が進んでいましたが、地形的に内陸であるという印象を持たれやすかったことや、大正以降に大きな高潮被害に遭っていなかったことなどから、その対策が不十分な地域でもありました。

また、農業や工業などの目的で地下水を急速に汲み上げたことによる地盤沈下も進んでおり、名古屋市周辺の海岸部には広範囲にわたって海抜ゼロメートル地帯が形成されていました。

台風が到達した26日午後9時半頃、伊勢湾では高さ3.89メートルもの記録的な高潮が発生し、その勢いを増すかのような暴風の後押しを受けながら名古屋港に押し寄せます。

当時高さ3.38メートルしかなかった海岸堤防は、津波のような勢いを持った高潮に呑まれて決壊し、大量の海水とともに、港に停泊していた漁船や客船などが陸地へと押し上げられました。

そして、名古屋港に設置されていた貯木場からは、直径1メートル、長さ10メートル、重量7~8トンにもなる『ラワン材』と呼ばれる原木約20万トンが流出し、高潮の流れに乗って市の南西部にある南区や港区の住宅地を襲ったのです。

誰もがこのような高潮が発生するとは想像もしておらず、また当時唯一の情報源であったラジオも、夕刻に発生した停電によって機能を失っており、多くの人が家に残されたまま、これの直撃を受けることになりました。

住居をも破壊する威力を持つ大量の流木によって、南区だけでおよそ1,500人が犠牲になったと推測されています。

また、この高潮による堤防の決壊で、標高が海面よりも低いゼロメートル地帯となっていた伊勢湾岸の下流域や市街地のほとんどが水没してしまい、海の一部のような状態になってしまいました。

この海水を排水するためにはまず堤防を修復する必要があり、排水ポンプを使った作業によって水没地域が完全になくなるまでに、実に半年もの期間を要しました。

犠牲者数は愛知県で3,351名、三重県で1,211名にものぼり、全・半壊家屋15万棟、流失家屋4千7百棟、浸水家屋15万棟、船舶被害1万3千隻以上となり、全国で約153万人が被災する未曾有の大災害となりました。

歴史的な日本の台風被害:まとめ

いかがだったでしょうか?

台風被害で千人単位の犠牲者が出ていたことに驚かれる方も多いと思います。

運悪く戦災と重なってしまった台風もありましたが、特殊な地形で起こる災害への意識不足など、インフラへの過信が生んだ被害などもありましたね。

こうした過去の災害の教訓から現代に活かされている知恵や技術も実に多いです。

私たちも現状が完全であると思い込まず、どのような災害が起こりうるか、常に意識することが大切だと言えるでしょう。

今回は、日本に深刻な被害をもたらした台風についてご紹介させていただきました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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